「除かれること残されること」  02.07.07
                ゼファニヤ3:9〜13、コリントT5:20〜21

 神さまの言葉が裁きで終わってしまうことは決してないことを、聖書から繰り返し
聞かされています。神の願いは滅びでなく命だからです。
怒りの神でいらっしゃる以上に、愛の神でいらっしゃるからです。

 神は、ゼファニヤを通して激しい怒りの言葉を告げられました(1:2〜3,3:1〜2)。
これまでに何度も、背く人々に対して正しさに立ち返るようにと呼びかけて
おられたのです。「必ず神を畏れ戒めを受け入れる」(3:7)と信じ、期待もしました。
 しかし、それでも人々は神に背きつづけたのです。
私たちは、「このような人たちはもう許されなくても当然です。滅ぼされても
仕方がない。神さまのご愛を裏切りつづけているこんな人たちを愛す必要なんか
ないですよ!」そんな風に神さまに言いたくなるほどです。
しかし、私たちの思いと神の思いは違いました。

 それでも、神さまの言葉は裁きで終わってしまうことがありません。
 それでも、神は<その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える>とおっしゃいます。
「清い唇」は、咎を取り除いていただき罪を赦された者が与えられるものです。
(イザヤ6:5〜7)。<お前のうちから、勝ち誇る兵士を追い払う>(3:11)。
 王なる主が来られて、滅びをもたらす敵(罪、死)を追い払う(3:15)と、
神ご自身がおっしゃってくださいます。
後に、そのような日を来させてくださるとおっしゃるのです。
 そして主イエスによって、このことは実現されたのです。まさに主は、
私たちを唇の清い者とし、罪と死を追い払うために私たちの所に来てくださいました。

 ゼファニヤ書に描かれている「背く民」の姿というのは、私たちの姿でもあります。
そこに描かれる民のように、自分なんか神さまに愛される資格などないと
思い込む時があります。

 しかし、私たちがどう思おうとも、神は裁きで終わらせはされないのです。
そのために主イエスをお送りくださいました。
罪と死は主イエスが取り除き追い払ってくださいました。
このことを信じ喜んで生きるのが私たちです。